しかし、陪審制といったときに、どうしてもイメージするのは、いわゆる民衆裁判といいますか大衆裁判というか、例えば中世においては、閉鎖的な村落の中で、裁判という名において一種リンチ的な縛り首が行われたとか、そういうのもイメージしますし、民衆裁判ではないけれども、宗教裁判の中では、いわゆる魔女裁判というのもあったし、ガリレオが宗教裁判で有罪にされて、それでも地球は回る、こう言った、こんな例もあるわけです。
倉田雅年
ちょっと申し上げますると、例えば司法法制審議会の第五回第一小委員会における畔上幹事の意見でございますが、
名前の簡易でなく、言葉の響きでは民衆裁判であり、全国津々浦々の民衆が相寄り民衆が裁く、自分達の手で処理すると言うのであり、単に簡単に処理すると言うことになれば従来の区裁判所で賄えるので、要は民衆的色彩に重点があるのだと思います。
坂上富男
ここで当事の幹事でありました畔上さんという方が、簡易裁判所の性格に関して、「名前の簡易でなく、言葉の響では民衆裁判であり、全国津々浦々の民衆が相寄り民衆が裁く、自分達の手で処理すると言ふのであり、単に簡単に処理すると言ふことになれば従来の区裁判所で賄へるので、要は民衆的色彩に重点があるのだと思ひます。」と述べておられます。
山中郁子
そういう歴史的背景は典型的民衆裁判に根差しておるのでありまして、だからこそわが国のように相互立証方式はとらずに、各当事者が一括立証の方法をとって、そして裁判の運命を決しようとします。そこには分析があるのではなく、直観が結論をつくるのであります。現実の日米貿易摩擦の厳しい現状の中で、十二人の陪審員は嫌というほどこの現実を教えられ、自分が見聞きしてきたことは否めない事実であります。
井上正治
従いまして、私は、民衆裁判というものは、ただ単に民主主義の本質から当然やるべきもののみならず、今申しましたような意味から、当然これはやるべきものである。そういうような意味から、戦前においても、昭和十年に不完全な形における陪審制度を始めた。ところが、やってみていろいろな弊害が出たがために、ついに十八年になってやめてしまった。自来十五年、まだ何らのその成案ができてない。
大橋忠一
また逮捕せられますれば、ただちに民衆裁判というようなことを行いまして、一方的の裁判のもとにこれを処刑してしまう。当時、御存じの方があるかと思いますが、ハルピンの市内の日本人租界ともいわれるような地段街という繁華街におきまして、布告をして次から次へと処刑をされて行つたような次第なのであります。
松井茂雄
それから更に九月の民衆裁判のときに結局当時宣伝されましたのは上原を銃殺せよというのは当時の宣伝でありますが、罰金追徴金三百万円、これによつて私はその全額の支拂いの責任を持たせられました。当時の人民裁判は終つたのであります。而もその後私は約一ケ月以上、九月の二十六日まで留置されておつたのであります。故なく留置されておつたのであります。
上原進
又農民団体と称する者が武器を持ちまして、市内に遁入せる地主を追廻し、民衆裁判の名において暴行、殺害等を勝手にいたしましたる事態もありましたが、昭和二十二年の暮から同二十三年の春にかけて行われましたる日本人が日本人をやつつけたこの種の裁判、財産沒收を最後として禁止となりまして、その後は前に申上げましたように大体資本主義的な自由主義的なやり方が行われておるのであります。
江島治平
こういうことでその民衆裁判、いわゆる大衆カンパが閉幕するのでございます。その場合に千田少佐が何か言おうと思つて弁解しようと思つたのですが、兵と言つた言葉一つが向うの掴むところとなりまして、一方的にぱあつと持つて行かれて、何らそれに対する弁解もできなかつたのでございます。こういう事実があつたのでございます。そうして先程議長さんの方からお話がありまして告発の問題に移行して行きたいと思います。
細川龍法
○淺岡信夫君 できますならば、只今の池田証人、或いは原田証人の証言が済んだのでありますが、以下の証言は同じ一千名からいたこの民衆裁判において、どういうふうなあり方でされたかということに対して、各人の証言を聽かして頂いた方が私はいいのじやないか。
淺岡信夫
○証人(池田重善君) それから今度はナホトカの民衆裁判にかかりまして、私に蒙古で評判されておつたような、或いは兵を重労働で使う、或いは処罰の曉に祈るがあつたというので二千名の前に立たされまして、そのときに全員で約六千名くらいおつたと思いますが、そこで一方的な評判になつて、これが拡大したのじやないかと思います。
池田重善